何かに夢中になれる人
こんばんは。
最近思うことを書いてみます。
母親の両親(祖父母ですね)はともに仏教だったのですが、母親は大人になってから勉強して(このへんのシステムよく分かってない)キリスト教信者になりました。
私と妹は幼児洗礼を受けています。
今でも覚えていますが、母親に「神父さまのお手伝いしたい?」と聞かれ、身の回りの手伝いでもするのかと思って「したい」と答えたのが洗礼を受けるきっかけだったんだと今更ながら思います。
おそらく母親は神父さまのお手伝い=ミサの中で神父さまの手伝いをすること(侍者=じしゃと呼びます)のつもりだったのでしょう。
洗礼を受けた私はもちろん侍者もするのですが、手順など全く覚えられず(覚える気もない)、当番が来るたび心底嫌な思いをしてただ耐えていました。なんなら母親がいないタイミングでシンプルにサボった気もします。
大学受験、進学、就職で通っていた(通わされていた)教会から離れ、もう一生行くつもりもなかったのですが、母親の葬儀でまた関わることになりました。
遺言も特にありませんでしたが、わざわざ仏式でするのも違うと思ったので。
宗教など全く興味ないしむしろ信仰したくないひねくれた私をよそに、教会のおばさまがたは非常に世話を焼いてくれてありがたかったです。
その後少しして自宅に来ていただき、お話をしたのですが…。
ご自身の信仰のお話や今後どこの教会に行くかなど話され、ブッ倒れそうになりました。
なんでも信徒台帳といって、その教会に所属している人の名簿があるそうで。私がいつもの教会を離れてたこやきの国の教会に行く場合、それを移さないといけないらしいのです。(住民票か?)
ま、結局なんだかんだで移さずそのままにしておきましたが、母親の一周忌とかそういうやつ以外で教会に行く気はないので…。申し訳ありませんが…。
小学生〜中学生の頃、日曜のミサ終わりに子どもたちが集められて日曜学校というものがあったんです。
その日のミサで使った聖書の一部を使って話し合ったり(どうしてイエスさまはこう言ったのかな?みたいな)した記憶があります。
ただでさえミサが苦痛(朝早いし意味も分かってなかった)なのに人見知りにはキツすぎるし嫌でしかない日曜学校…。
母親の葬儀ミサも昔の嫌な記憶(ほぼトラウマ)が蘇って意識が遠のいたレベルです。
さて、話が逸れまくりましたが、信仰心の話です。
先ほど言ったようにおばさまが家に来て色んな話をしてくれたのですが、そこで紛れもない信仰心を感じて、やっぱり私には宗教というものは合ってないと感じてしまいました。
葬儀ミサで神父さまの説教を聞いて、なるほど、これはこういうことだったのか、と感じる場面はありましたが、日々の生活にお祈りを取り入れようとか、それこそ毎週ミサにあずかろうとか、そういうのはありません。
キリスト教といっても自由なので、教会に行かない選択をしても許される(?)のですが、なんとなく属してるのが嫌なんですよね…。
それなら神道とかが良いんですが…。
宗教って、大多数の日本人には縁がないに等しいものだと思います。
仏教も洗礼みたいなのあるんですか?どこのお寺に所属みたいなのもあるんですよね。
一時期は神道に入信(?)してキリスト教から逃げようと調べまくったりしましたが、今は冷静になっている今日この頃です。
そんなこと言っていつのまにかガチモンのキリスト教信者になってたりして。
政治でもそうです。
私はそこまで興味はないものの、選挙は必ず行っています。
政策を調べて1番良いと思った人に投票しているだけ。
でもインターネットだとよく見かけますよね。特定の政治家を叩きまくって喚く人たち。
何があの人たちを突き動かしているんでしょうか。
何かに夢中になれる人が羨ましい。今日のまとめはこれです。
宗教にしても政治にしても、もちろん趣味にしても、何かに夢中になれるって素晴らしくないですか?
生きる糧ですよ。生きるのが楽しくなる、楽になる要素です。
私といえば今まで数ヶ月に1回のライブが生きがいでしたが、それもなくなってしまいました。
毎日朝起きて労働をして、遅くに帰って睡眠の繰り返しです。
もしかすると何かに夢中になる気力も残ってないんですかね。
…悲しい話になってしまいましたが、先述の件で話の内容はともかくおばさまたちの夢中になれる姿に感銘を受けたので、私もそんな風に夢中になれるものを探したいなと思います。
今はまだ慣れなくて鬼の形相をしながら運転していますが、慣れたらドライブに夢中になれたりするかな…。
みなさんも宗教の取り扱いには気をつけて(?)、夢中になれるものを見つけて楽しい人生をやっていこうな。
以上!